2013年1月10日木曜日

堺市北区の地名のあれこれ

地名のあれこれ

更新日:2012年12月19日
 地名には、それぞれ名づけられたわけがあり、それによって、その土地の歴史や文化を知ることができます。
昔、堺は、和泉、河内、摂津の境にあったことから、「さかい」と名づけられました。
 北区内の地名の由来を一部ですがご紹介します。
 (堺商工会議所発行 "地名あれこれ"等より抜粋)

百舌鳥

日本書紀によると、仁徳天皇六十七年の十月五日に、天皇が河内の石津原(当時は和泉も河内だった。)に行幸されて、陵地を当地に決められ、十月十八日から工事をはじめられました。その時、野から鹿が走り出て、工事をしている人をめがけて突進してきました。ところが、直前でその鹿がにわかに倒れてしまいました。不思議に思ってその鹿を調べてみますと、鹿の耳から『百舌鳥』が飛び立ちました。そして鹿の耳の中は、すっかりもずに食いさかれていました。工人の危ないところを百舌鳥がたすけたわけです。この小さな百舌鳥の勇ましい働きをたたえて、この地を『百舌鳥耳原』と呼ぶようになったのです。

五箇荘

五箇荘には、六の坪・二十の坪などの小字の地名が残っていますので、歴史は古く、条里制がしかれた頃から開けたところだと推測されます。即ち、大化の改新のときに設けられた口分田のあとが伺えます。また平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社や貴族と結んだ荘園が堺でもふえました。八田荘・日置荘などがその例で、五箇荘には当時五つの荘園があったところから五箇荘という地名が誕生したと言われています。

南花田・北花田

遠里小野(江戸時代に大和川の水路が付け替えられて、大阪と堺が分断されたので、現堺と大阪の両市に遠里小野があります。)から五箇荘にかけて、灯油などの原料に使われる『あぶらな』『えごま』の栽培が中世から近世にかけて盛んに行われました。そのためこの周辺は、開花期には一面に見事な花盛りになったそうです。それで『花田』と呼ばれるようになり、この花田へ通じる入口を花田口とつけられ、更にその道路が花田口筋と呼ばれるようになったそうです。

金岡

我が国では、明治二十二年(1889)に町村制がしかれましたが、その時に金田村と長曽根村が合併し、村の名前は金田村にある金岡神社にちなんで金岡村と名づけられたそうです。しかし、古来堺は刃物と鉄砲で有名ですが、その源は丹南の鋳物師集団です。この地はかつての丹南鋳物師の居住地であり、村名が金田村であり、更には付近に黒土・日(火)置・丹冶比など、鍛治に関係の深い地名が多いことから『金の岡』と名づけられたというように、金岡の地名の由来を考えるべきではないかという説もあります。

東浅香

浅香山稲荷の由緒書から調べてみると、推古天皇(五九二から六二八)の時代のこと、聖徳太子がこの地方を巡遊された折、白髪の老翁が太子に、『昔より此処に埋まる香木あり』と告げて去りました。太子が不思議に思い掘らせたところ、古い朽木が出てきました。これを焼かせてみると、芳香がたなびき、太子が『浅からぬ香り』と言われたことから、当地を『浅香』と呼ぶようになったと書かれています。

八下

明治二十二年の四月一日に新しくできた町村制によって、南河内の八上(矢が見)郡の南花田・中・野遠・河合の村々が合併して北八下村となり、大饗(おあい)・石原・菩提(ぼだい)・小寺・野尻の村々が合併して南八下村となりました。八上郡の下にできた村ということから『八下』(やしも)というようになったそうです。そして、北八下村は昭和三十二年に、南八下村は昭和三十三年に堺市に合併しました。

東三国

三国丘の地名の由来は、摂津・河内・和泉の三つの国のさかいにある丘ということから名付けられたそうです。『さかい』という地名もこの国のさかいからつけられたそうですが、当時の堺の地域は、律令時代の国郡の制度では、摂津国住吉郡の南部、河内国丹比郡の西部、和泉国大鳥郡の北部で丁度三国丘の位置がその接点だったわけです。東三国丘地名は、三国丘の東に発展した地域からつけられたことは申すまでもありません。